『音から作る映画1 映画としての音楽』(2014)(って表記をしていいもんだか.....@アップリンク・ファクトリー)

クリスティーヌ・ビュシ・グリュックスマンの『バロック的理性と女性原理』。バロックって何だろ?と思って図書館で借りて読んだのだが、そうゆう用途には一番向いてなさそうな本だった。でも突然出てくるのだ、サロメが。
アップリンクの近くには松涛美術館があって、美術館は白井晟一の設計で、だからロビーには白井の著作や関連本が置いてあって、ソファに座ってぱらぱら捲っていると磯崎新の文章が目に留まって、そこにはバロックが。
バロック=サロメ。子宮で考えるタイプの人間じゃないのでよくわからないが、磯崎の文章を読んで、これ『dub house 52』の事じゃないか!と、独り興奮していたので、今回の原作のチョイスもすっと納得(日夏耿之介『院曲撒羅米』は未読)。こういうことってあるもんだ。
七里圭というひとがバロック型なのか、それとも映画というものがそもそもバロック的で、その原理に監督が素直に身を投じたということなのか?(何か間違った問いの立て方)〜王国は円を描く振り子の半分だけ。後の半分は常に空けてある。
フィルムという男を切断してくれるセイレーン(またしても.....)としてのbackground musicが繋いでくれる映画。切断=切り株=楕円というstoryが語られるひとつの場所は波打ち際。そこにはもう夜はない。月という確固たるスクリーンはフィルムの作り出す影とともに無くなってしまった。漣する新しい基底面には映らない面影。身を翻すそのヒステリカルな冷静さ。そして女は太陽となった。上下を行き来する赤い球が前後を揺らぐ白い球を切断する? 横たえられた井戸)。
ひとつの世紀越しの蜜月の終わりに、いまこそ新しい交接のやり方を発明しなければならないのだが.....
しかしそもそも映像も音も同じ信号の戯れに過ぎないとすれば、どちらも助からないはなしだ。としても、とにかくひとつのstoryが語りきられた事を観とどけた。

たとえば女=音の主導で、女に任せてstoryを進めようとすれば、そこにあらわれるのは、色彩の無秩序な乱舞(『眠り姫』終盤の)。
別のヤり方、別のkissを発明する、はずがなぜか悲劇の誕生に。サロメ=サロメって駄洒落? 
グリュックスマンによれば、彼女が召喚されるということは"他者"の理性が問題になるときだというのだが、この問題はもう世紀をまたいで時代遅れになってしまったのだろうか? YES、というのが『アデル』監督と主演女優たちの答えなのかもしれないが、正しくても、いまいち−面白く−ない、率直に言って。つまりここにはまだ何か尽くされていない謎がある可能性があるのだという直感を持っているのだ。芸の肥やし主義だろうか、いや、そうではなくて、もっと面白い何か.....