(さらに、これらの重なり合った諸条件は皆、他の箇所で(「物」という奇妙な講演において)ハイデガーが四方域もしくは正方形(Geviert)と名づけているものの遊動のうちに集まる。この四方域の四つの力域、大地、天空、死すべきものたち、神的なるものは、不動でありかつ振動するある緊張においてお互いに支え合っており、それゆえ確証し合いながらかつ斥け合っている、この緊張のうちにそれぞれは、他との闘いにのみその出来を負うているのであり、そしてそこではそれらの相互の闘いは、それらが縺れたりほぐれたりして調和のとれる均衡を、それらを召還し、動員し、維持する〈存在〉にのみ負うているのである。四方域のなかでは、神々は自分たちの役割しか演ずべきものはない。神が神々の役を演じるに足るなどとはおいそれとは言い難いように、ましてや神を四方域から免れたものとして考えることはいっそうできないことであろう。神は四方域から免れていないし、当然ながらそれを創始したり支配したりするのでもない)

(ぼくは真四角の絵を描くのを好んでいる。そうすれば、どっちを長く、どっちを短く、なんて決めなくて済むからだ。ただの正方形なんだから。いつも同サイズの絵だけを描きたかったのに、誰かがいつもやってきて「こっちをもう少し大きくしたら」とか「もう少し小さくしたら」なんて言うんだ。どの絵も全部同じ大きさで同じ色なら、みんな取り替え可能だし、誰もどっちの絵がいいとか悪いとか思わなくなる。もし、ひとつの「マスターペインティング」が良ければ、あとのは全て良いのだ。そのうえ、主題が違っても、人はどっちみちいつも同じ絵を描くんだから。)