言葉とイメージ

わが吐息君が吐息に 触るるときはじめてそこに 秋風を生む

なほそこに保名と黄なる 蝶ありぬ芝居がえりの 夜のまぼろし



『墨』って雑誌が図書館にあって、バックナンバーをなんとなあく眺めていたら面白い文章を見つけた。

第七回『墨』評論賞
準大賞(石川九楊 選)
和田倫斉「『秋日和』と乾隆帝と吉井勇」

"観る"ことに人を誘う、"観る"事で空間が絵画へと変貌を遂げる瞬間が、云々という感じ、小津の映画の魅力だと思ってきた。

観る=見て読むことの魅力うんぬん。

そのくせ、そこにあからさまに手掛かりとして放り出された額縁の中身にあまりにも興味を向けなかったのだ。

この短い評論で行われていることは、さり気無いけれど、とても鮮やか、素晴らしい。

スクリーンという矩形の中を行きかう色と形が、さらにその中に置かれた矩形の中の色や形と言葉と言葉の形とに複雑な関係をもって結びつき、または離れて行く。
そこに感じることが出来るのはニジと3次元の間をリズミカルに変化していく平面と空間。物語。

"書"という遠い昔に大切な役割を持ってはいたが、現代には属していないのでは、と思われがちな形式と不可分な何かが、映画という形式の中に特別なやり方で残存している事を見事に証明して見せた。

その"映画"もまた、"この"現代には属していないとしても、その形式と不可分な何かが、生まれつつある新しい形式の中に、イカにしてか特別なやり方で入り込み、それを誰かが、特別なヤり方を持ってして観出だす、ということはあり得る。

むっちゃpositiveになった。
いやあ映画批評ってほんとにいいですねえ?

不屈の精神

不屈の精神