『土瀝青 asphalt』(2013)

(存在はあるのではない、起こるのである。ひとえにこうした状況のもとでのみ、ヘテロトピアとしての美的経験、装飾の多元化、世界の基底の掘り崩し=深淵[s-fondamento]―ひとつの基盤[sfondo]の上に世界が配置されるという意味であれ、世界全体が免許を剥奪される[de-autorizzazione]という意味であれ―は、一つの意味を獲得し、根本的な理論的省察のテーマとなりうるのである。こうした存在論的な参照軸がなければ、ここ二〇年の美的経験の変化を(とはいえ、それ以前の時代の変化のように)一つの召命や一つの「運命」として解釈しようとすることは、歴史主義がふり撒く媚態であり。流行への譲歩であり、何がなんでも時代と同じ歩調で歩みつづけようとする人々の弱みであるように思われるだろう。ところが、周知のように時代は、読解され解釈されてはじめて、一歩進み、方向を示すのである。大衆社会の美的経験の変化を、(もはや)形而上学に拠らない存在の経験に向けたハイデガーの呼びかけと結びつけるならば、ヘテロトピアとの賭けは、たとえそう呼ばれたにせよ、たんなる軽薄な行為ではありえない。ハイデガーにならって、存在とは、まさしく存在しないものであり、消え去るものであり、臨場感、安定性、構造でないがゆえにその差異によって明言されるものである、と期待するならば、そのときにはじめて―おそらく―われわれは、今日の美的なるものが装飾的でヘテロトピア的なかたちで炸裂したその瓦礫のただなかに、一筋の道を見つけることができるだろう。)