(「『神』Deus(という名称)は、

theoroすなわち『わたくしは見る』(という動詞)から来ている、と言われています。なぜなら、神自体は、いわば色の領域における視覚visusとして、われわれの領域のうちにin nostra regione存するからです。というのは、色は、視覚による以外の仕方では到達されえませんし、また、(視覚が)あらゆる色に自由に到達しうるために、視覚の中枢centrum visusは色をもたないで存しているからです。色の領域において視覚が見出されないのは、視覚が色をもたないで存しているからにほかならないのです。したがって、色の領域に基づけば、視覚は、『或るもの』aliquidであるよりも、むしろ、『無(非存在)』nihilであるのです。なぜなら、色の領域は、みずからの領域外では存在esseに到達することなく、むしろ、みずからの領域内に存在するものすべてが存在esseであることを肯定するからです。かれ(色の領域)は、そこに(みずからの領域内に)視覚を見出すことはありません。したがって、視覚は、識別によってper discretionem どんな色にも名称を与えます。したがって、色の領域においてはどんな命名nominatioも視覚に依存するけれども、いっさいの名称が依存するところのそれ(視覚)の名称は、(色の領域内では)『或るもの』aliquidであるよりもむしろ『無(非存在)』nihilであると把握されるのです。それゆえ、視覚が可視的なものどもvisibilaに関わり合うような仕方で、神は万物に関わり合っているのです。」)