高田安規子・政子の軽石建築や苔迷路に物の大小を揺るがすという目的があるとすれば、(MOTアニュアルの話だけど)、対比してみて、福田尚代の本や原稿用紙やタイポグラフィーを素材に作られた作品は、とりとめない、読むということが必然的にはらむ、没入する感覚から"大きさ"を取り戻すための試みだと言えるかも。消しゴムと色鉛筆の作品には書くということのそれが。
言葉というもののスケールの無さに対する抵抗?
言葉の大きさをもとめるという無限的な(それでいて日常に根差した)試み。