(要するに、

イコンと偶像とは、他のもろもろの存在者と対面する存在者として規定されるものでは全くない。なぜなら、同じ存在者(彫像、名称等)が、一方から他方への地位へと移行することもありうるからである。イコンと偶像とは、存在者の二つの類をではなく、その二つの在りあり方を規定するものなのである。
したがって、イコンと偶像との相互干渉はそれだけいっそう問題のあるものとなり、それだけいっそう緊急な注意を要求するように思われる。―しかし、次のような反論がなされるのももっともであろう。いくつかの存在者が、ただ崇拝に面しての身分を変えることによって、偶像からイコンへ、あるいはイコンから偶像へと移行することがありうるとしても、あらゆる存在者にこのような移行が可能なわけではないであろう、と。実際、どんな存在者でも崇拝の念をかきたて、引き起こし、いわんや強要することができるなどというわけではない。より正確に言うならば、たとえ崇拝を強要する存在者の数やこの崇拝の様態が変わるとしても、それらの存在者のすべてがそれでも共通で最小の特徴を許容する。すなわち、それらは神的なものに関わるSigna(記号)なのである。―Signaというこのラテン語の言葉は、この際多くのことを語っている。偶像あるいは/およびイコンというこの矛盾する身分を主張しうるのは、(正当にも「装飾芸術」と呼ばれるものにおけるように)その可視性をそれら自身に限定せず、そのようなものとして、かくも絶対的にそれら自身に内在的にとどまりつつ、しかし同時に他の、いまだ規定されざる項を暗示している(faire signe)、というように芸術が制作した作品なのである。明確にしよう。この回付は、芸術作品そのものがそれ自身に対して構成する審級を多重決定しにやって来るような審級を指し示しているのではない。逆に、この回付こそ、作品の最も本質的な尊厳をなしているのである。作品がまさに作品として現れるのは、何かを暗示することによってのみである。それというのも作品が記号signumとしての価値をもつのも、暗示することによってのみだからである。それゆえ、偶像とイコンの区別は、それらが異なった仕方で暗示する限りでのみ、つまりそれらの可視性をそれぞれの独自の仕方で使う限りでのみされるのではないか、という疑いをもって、signa(もろもろの記号)を、その意味する仕方に関して問いただしてみなければなるまい。しかし記号signaとなるためのこれらの仕方の多様性が、おそらくイコンと偶像との間のすべてを決定しているのである。―Signa、しかし同時に神的なるものに関わる記号。最高の難問(signumとしてしか可視性に近づけない存在者が、神的なるものそのもの、ただそれのみとは別の指示項を指し示すなどということが可能であろうか?)に接近するなどと主張はしなくとも、神的なるものは、ここでは可視性の支えによってのみ初めて介入してくるのだ、ということは少なくとも注意しておかねばならない。しかし可視性は、神的なるものに関しては、いくつもの仕方で語られる。というよりもむしろ、可視性の様態の変化は、神的なるものそのものを捉える仕方の変化を示しているのである。可視性の同一の様態が、神的なるもののどんな形姿にもふさわしいということはありえないであろう。そうではなく、神的なるものとある厳密な、おそらくは構成的な関係を結んでいるのである。つまり、見る仕方が、何が見えうるかを決定するのであり、あるいはむしろ、少なくとも否定的に、神的なもののうちでいずれにしても見ることができないであろうものを決定するのである。―したがって、偶像とイコンとの比較現象学を素描する際に問題になってくるのは、美学や美術史のあれこれの問いなどではなくて、神的なるものの可視性における二つの把握の仕方を正確に規定することなのである。把握の仕方、もしくはおそらく、受容の仕方でもあるだろう。)