メモ。

映画の時代背景などを考えてみたり....
1970年代前半の合衆国の大学、リベラル。革命が終わった後の。
物事の大きな変化、という希望につながるようなデモの時代はもう終わってしまった。今、はむしろそこに参加している恋人たちの小さな関係を撮ろうとする事のほうがまだしも興味深い、というような時代。
目に怪我を負ったのは、かつてのそんな大きなデモに参加したせいらしい反抗的な年長者と、警察官の父を尊敬しているという片目の青年が同じ色の服を着て並んで歩いている。

結局、デモって何なのかよくわからない。参加する気もないけれど、軽蔑する気もなく、やりたい人が見たくない人の気持ちをあまりに逆なですることなしに(といってもそれも、それこそが?デモの大事な役割だというのだろうが)気持よくのろのろ歩けますように、というのが自分の立場である。

モーゼ:サンタ≠父:ノア

権力の目をかすめて行われる入水芝居、というメタ芝居。

画面の中の断片化、スプリットというよりは点滅。外枠という水面に束の間浮かび上がっては、サイケデリックな揺らぎとともにまた沈んでいく、簡易版イメージ箱舟の試作品のあれこれが実用に耐えるかどうかの"実験"のようだ。

ファミリー・ネーム抜きの、ただのニコラス、の贈り物、自分をばらまく。トマトぶつけのイニシエーション。赤い服の子供たち。

ただのニコラスに成りたい、ただのニコラスのまま、"家"へ入り込みたい、父のように死ぬことによって"家族"を支配する事にさえ失敗〜邪魔されて〜聖霊になる。
抑圧的になりたくない、分散して、偏在していたい、という願望。

家に入りこむ、誰のものでもない家、擬似的な父母の喧嘩が行われるのだが、破局する間もなくなし崩しに終わった(か、もしくは終わらなかった)。誰のものでもないので彼は父でもないし父に成りたくもないし、彼も子でもないし子供扱いされたくもない。


父でないものと子でないものの間の一つの場所。教室。

そして隣には馬小屋がある、馬小屋で死に損う、寝てやり過ごす、という、とりあえずの終わりのイメージ、が最後の箱舟になる。親切に、できるだけどんな人にも親切にという聖霊的な伝言と安らかな寝顔。水かさが増してくる、という歌。

時代背景や制作状況にもかかわらず、暗くならない、というより観終わってむしろ明るい気持ちになるのが不思議。
監督の人徳、だろうか。
独りじゃできない事もある、という自己引用。
何か新しい事を、というエズラ・パウンド(いつの?)からの引用。